息子、初出勤


今日から新しいステージ。

行ってらっしゃ~い。

介護認定に合格


2017年2月2日、ようするに、2か月前、父が入院しました。
1月末に、歩き方が極端に衰えたのに気付き、
2月に入り、右手の動きが鈍いことに気付きました。

ん~~~、2月2日の朝、ちょっと考えた。
たとえば、一緒に住んでいなければ・・・
一緒に住んでいたとしても、忙しさにかまけて見逃していたら・・・
たぶん、このまま・・・

とりあえず、父に聞いてみた「医者に行こうか?」
父は、「来週、行くからいい」と。

父が納得なら、それもいいかも知れない。
妻を亡くしてから20年、生きてきたわけだし。
脳こうそくを1度患ってからも15年間、過ごしてきたわけだし。
家族と暮らしながら、好き勝手し放題の人生だったわけだし。
だいたいからして、私も、もう十分やったしな~。
もう、いいよね~~~。
と、そんな気分にもなっていた。

そう。父も私も気付いていたんですよね。
医者に行っても、長引くだけだってこと。
そして、元通りになって帰ってこれる可能性はないってこと。
ましてや、若いころのように戻れるはずもないってこと。

でも、けっきょくは、「世間体」というか、「一般的に」というか・・・
「今日は病院へは行かない」と、言い張る父を説得して、病院へ連れて行ってしまいました。

まあ、お気の毒ですが、あの日から2か月、
父は病院で、大の苦手な集団生活を送っています。

あまりにも、気の毒ですし、気になるので、私は毎日のぞきに行っています。
リハビリに付き添って見学したり、
一緒にテレビを見たり、
そう、そう、日頃から、(若い時からそうだったけれど)家族とお喋りをする人ではなかったので、
こういう事態は、非常に困ります。
見舞いに行っても、ぼんやりと座って、
ときどき顔を覗き込んで「どう?」と、にっこり笑うくらいしか、ねえ、何もない。

で、先日、病院へ市役所の職員さんが来てくれて、介護認定の審査をしてくださいました。
おかげさまで、父の問題行動が「見える化」されて、要介護3を頂けました。
2年ほど前、私にも限界が来て「助けてください」と、SOSを発信したときは、
審査員さんには見えなかったのでしょうね、「自立」の判定だったんですよね。

ようやく、助けてもらえます。
ながかったな~~~、あ~~~、やれやれ。

物心ついた時から悩まされていた父の問題行動・・・
「どうして、ちゃんとやらないの?」と、母がいつも怒ってたよな。
私だって、同居までして助けてあげようと思ったくらいなんだけど、
その母だって、今思えば、けっこう大変なお人柄でしたわね。

放り出せず、放り出さずに今日まで来ちゃったけど、
あと、もうちょっと、頑張れそうだわ。
もう、大丈夫、「見える化」されたしね。

今の父は、やれないから、できないんだよね。
うふふ。よかったね。できなくてもイイんだよ(^^)。うふふふふ。

なにより、嬉しいのは、
私って、けっこう親思いの優しい人だったてこと(^o^)。
じつは、そうだったんだなあ。よかったわ。

さてと、今日もぼちぼち病院へ行って、テレビのスイッチをプチッとしてこよ。
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あら、今日の3時は、ちょと困るなあ。野球かな?馬かな?ん~~、どっちかな?

ハロウィンねえ

Facebookを始めました。
お友達になってる人々が、地域活動で繋がってるってこともあるとは思うんだけど、
ハロウィンがらみのイベントへのお誘いが、やたら多い。

私も、昔は似たようなことやってたような気もする。
あのまま来てたら、今もやってたかもなあ。

みなさん、ごくろうさま。

わたしは、行くのやめとく。

胃カメラ飲みました

今日、胃カメラを飲んできました。
美味しいものではありませんが、めちゃくちゃ拒絶するほどでもなかったですよ。
看護士さんから、あらかじめ「よだれをタラタラ流して良い」と、言われたので、
とても気楽でした。

なぜ、胃カメラ?・・・と、言いますと、
そもそもは、1か月ほど前のことになりますが、
風邪気味だったので、こじらす前に薬を飲みたいと思って病院へ行きました。
7月末から8月いっぱい、児童館の放課後児童クラブ(学童保育)で働くことになったので、
「風邪なんか、ひいてられない」という感じだったのです。
病院へ行くのが早すぎたのかな?
よく分かりませんが、病院で出してもらった薬が効かなかったのです。

「この薬が効かないということは、風邪じゃあないですね」と、驚かされて、
血液検査、肺のCT、そして今日の胃カメラ・・・
と、いうメニューが用意されたってわけです。

血液検査で、腫瘍マーカーの数値が高めで、
まあ、乳がんをやっておきながら、今まで人間ドッグも受けずにきたので、
がんの転移を疑うのも当然ですわね。

児童館のお仕事は、楽しくて、やりがいもあったから、休まず行っちゃいました。
8月中旬以降は、市販の咳止めを飲んだり、トローチをなめたりしながらね。

胃カメラの結果は、異状なし。
ポリープは3つ見つかりましたが、悪いものではありませんでした。

ん~~~、で、この咳の原因は、いったい何?
てのは、よく分からないのですが。
医師に伺ったら「まあ、咳は多少残りますね」と、前に撮った肺のCTを見せてくれました。
咳に関しては、しばらく「様子見」ってことね。

50年来、酷使してきた肺や胃は、ちゃんと正常なことが分かることができ、
今回は、良い機会でした。
これからは、肺や胃には、50代にふさわしい優しい対応をしてあげたいと思ってます。

一方、この咳、勝手な自己診断としては、
家のホコリ、児童館で大声を出したこと、やらねばいけないことへの自責、家族への気遣いなどなど、
ようするに、たまったストレスが原因なんじゃないかな?
普段なら平気でいられるのに、免疫力が落ちてるから、症状として現れる。
体がSOSを出してんのよね。
そういえば、最近あそんでないもんなあ、ヤバい!

・・・で、
結局のところ、お医者さんは、疾患を診て、見えた部分を直してくれる技術屋さんかもね?
と、思いました。

だから、自分自身しか出来ないことは自分でするしかないわけ。
ランニングして免疫力を高めるとか、本を読んで豊かになるとかね。

この処方箋に気付くことができたのは、
私だけの力じゃなくってね、
私の話を聞いてくれる人、
私に話しかけてくれる人、

そうです。あなたが居て下さったからなのです。

おかげさまです。感謝してます。
ありがとうございます。

能力の共同性(共同体を考える7)

社会との関わり方について、伊原(2015)は
「私たちの生活は、市場原理など一元的な基準によって評価されるべきものではない。
会社で働き、家族との団欒を楽しみ、親しい人との交流を深め、
地域社会の活動に参加し、さらには‘無為に過ごす時間’を満喫するなど、
社会への関わり方は多面的であり、多元的である」と、述べている。
また、「消費―労働」からくるストレスに注目して伊原は、
「社会政策上の対策や地域社会での取り組みが必要だが、
一人ひとりが身の周りからできることもある。
消費―労働に追われた生活から半ば降り、
労働に関する「トラブル」に対処する方法を身につけ、
親しい仲間で経済的・精神的に支えあい、自分たちの中に「あそび」を作る。
自らが近辺の環境を変えることにより、
少しずつではあるが社会意識や社会構造は必ずかわっていくのである」
と、示唆している。

 広井(2009)が示したように
「市場経済の拡大ひいては資本主義の展開という流れが成熟ないし定常期に入り、
その飽和と共に『新しいコミュニティ』の創造ということが中心的な課題として現れ、
『関係性の組み換え』あるいは『独立した個人のつながり』の確立に向けて
様々な対応や具体的実践が行われていくことが求められている」のは事実であろう。
しかし、その実践は、成果主義や市場原理に変革をもたらすものではないだろう。
そして、「新しいコミュニティ」が、「格差」や「貧困」を直接に解決することはできないであろう。

 私たちは、時代の流れを受け入れ、発生している問題の背景にあるものを捉え、
理解して、自分の身に降りかかる問題は自分で対処するしかない。
ところが、それだけでは、孤独で虚しい毎日となってしまう。
そこで、「誰かに話したい」、「誰かに助けてもらいたい」、
「楽しくやり過ごしたい」などと感じた時、
あるいは「何をしたいわけではないけれど・・・」と思う時でさえも、
立ち寄れる場所があり、誰かが居てくれたら「ありがたい」ではないか。
年をとって、足腰が弱った時に立ち寄るためには、近所にそのような場所を作っておいた方が良いであろう。
近代社会は、資本主義経済のもと、能力を商品化して貨幣に替え、ニーズに対処してきた。
その延長上に「リスク社会」と呼ばれる現在がある。
自助努力では満たせない欠乏の発生や、公助の限界がみえてきた。
共助への期待が高まっている。
「能力の共同性」という考え方を重視して竹内(2007)は、
「個人にできないことがあるのは当然で、周囲に助けられる方が大事な場合もたくさんある」
と、言及している。
これからは「『能力の共同性』の認識」、
そして、「『能力の共同性』の認識からなる『コミュニティ』への関わり」が必要なのかも知れない。

参考文献
広井良典[2013]『コミュニティを問いなおす : つながり・都市・日本社会の未来』 ちくま新書
伊原亮司[2015]『私たちはどのように働かされるのか』 こぶし書房
竹内章郎[2007]双書 哲学塾『新自由主義の嘘』 岩波書店

「共同体」「新しいコミュニティ」(共同体を考える6)

「『無縁社会』という言葉が衝撃をもって受けとめられ、
東日本大震災の過酷な現実に直面して絆の大切さが見直されるなかで、
いま、コミュニティへの期待や関心があらためて高まっている。」と、山崎(2014)は言う。
 
 「コミュニティへの期待や関心」には、どのようなものがあるのかを見ていくことにする。
広井(2009)は、「農村型コミュニティと都市型コミュニティ」という視点から
人と人との「関係性」のありかたについて、次のように述べている
「都市化・産業化が進む以前の農村社会においては
‘生産コミュニティ’と‘生活コミュニティ’が、ほとんど一致していた。
すなわち、稲作等を中心とする‘共同体に一体化する個人’ともいうべき関係性があった。
やがて高度成長期を中心とする急速な都市化・産業化の時代において、
両者は急速に分離していくとともに、‘生産コミュニティ’としてのカイシャが
圧倒的な優位を占めるようになっていった。
ところが、経済が成熟化し急速な拡大・成長の時代が終わりつつあると同時に、
カイシャや家族という存在が多様化・流動化している現在、
こうした構造そのものが大きく変容する時代を迎えつつある。
ここにおいて、地域という‘生活コミュニティ’は回復しうるかという問いが
新たな装いのもとで浮上してきた。
日本における根本的な課題は
‘個人と個人がつながる’ような、‘都市型のコミュニティ’ないし関係性というものを
いかに作っていけるか、という点に集約される」。
 
 一方、広井(2009 )は、人間のベースにあるものを捉えて、
「『都市型コミュニティ』を支えているのは規範性・理念的なルールや原理であり、
それ自体において‘情緒的な基盤をもっていない’。
しかし人間という存在は少なくともそのベースに
情緒的あるいは感情的な次元をもっている生き物であるから、
何らかの形での『農村型コミュニティ』的なつながり、
つまり『共同体』的な一体意識をも必要としている」と、述べている。

 「『共同体』的な一体意識」とは、どのようなものであろうか。
「共同体」と呼ぶ条件について触れているものに内山(2010)の
『共同体の基礎理論―自然と人間の基層から』がある。
「共同体の中には強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。
明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。
その中身を問う必要はない。
ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。
それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。
だから単なる利害の結びつきは共同体にはならない。
群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう」
と、内山は述べている。

 これからのコミュニティ政策について山崎(2014)は、
「①コミュニティという目標を維持し、
②歴史的に積み上げられてきた地域自治の成果をふまえて、重層的に範域を設定し、
③地縁型組織とテーマ型組織の連携を促し、そして、以前からの欧米の実践も参考にしながら、
④コミュニティの制度化のあり方を問うことが求められる」とし、
地域自治という発想が定着していない現状に対して
「コミュニティの制度化を法に限定せず、より柔軟に考える必要があろう」
と言及している。

(参考文献)
広井良典[2013]『コミュニティを問いなおす : つながり・都市・日本社会の未来』 ちくま新書
内山 節[2010]『共同体の基礎理論―自然と人間の基層から』 (シリーズ 地域の再生) 農山漁村文化協会
山崎仁朗[2005]オスナブリュック市における近隣自治機構の再編 岐阜大学地域科学部研究報告第16 号
山崎仁朗編著[2014]『日本コミュニティ政策の検証:自治体内分権と地域自治へ向けて』 東信堂

現代社会(共同体を考える5)

 戦後の日本社会を「農村から都市への人口大移動の歴史」と捉えた広井(2009)は、
「農村から都市に移った人々はカイシャと核家族という‘都市の中の農村(ムラ)を作っていった。
カイシャや家族といったものが‘閉じた集団’になり、それを超えたつながりがきわめて希薄になっていった。
そしてさらに、そうしたムラ社会の単位が個人にまで縮小し、
人と人の孤立度が極限まで高まっているのが現在の日本社会ではないだろうか」と、分析している。
※広井良典[2013]『コミュニティを問いなおす : つながり・都市・日本社会の未来』 ちくま新書

 1970年代後半、オイルショックにより、先進諸国の産業構造は大きく変化した。
近代化によって達成された豊かさはリスク要因となり、
さまざまな問題が人間や社会に影響を与えた。
さらに、グローバリゼーションによる長期不況、長期失業。
少子化による現役世代の減少。
限られた予算で、福祉的救済の需要に対応することが、先進国に共通する課題となっている。
 
2000年代前後から、議論が活発化してきた「格差・貧困」の問題について新谷(2010)は、
「人々は『格差社会』が声高に叫ばれれば、それに対して個人的に対処しようとする。
そして、その意思と用いることのできる資源は、経済資本、文化資本などによって規定されている。
それゆえ、むしろ格差の拡大を導いてしまう可能性が高い」と捉えている。
※新谷周平[2010]『労働 : 若者の現在』第五章
『新しい「階級」文化への接続:「動物化」するわれわれは「社会」をつくっていけるのか?』 日本図書センター

 現代の日本社会における「うつ病」など精神疾患を患う労働者および失業者の増加について、
伊原(2015)は、「『ムダ』=『あそび』が社会から削り取られ、
先の見えない競争を強いられ、賃金や資産の格差が拡大し、
それらに起因する『ムリ』を押しつけられた部位の『弱さ』が表面化した現象の
一つとして認識すべき」であると述べている。
※伊原亮司[2015]『私たちはどのように働かされるのか』 こぶし書房

場における役割(「共同体」を考える4)

 私が、「コミュニティ」に「共同体」的なものを感じたのは、
2011年、東日本大震災直後の5月に被災地を訪れたときである。
気仙沼の高台にあるお寺が避難所の役割を果たしていた。
おそらく、住民らが津波から逃れて、お寺で寝泊まりをするようになったのが始まりであろう。
お寺の避難所は、住民のそれぞれが役割を担う形で運営がなされていた。
漬物をつくる高齢者や、体験談を語る高齢者、日曜大工をする若者、
さらに、皆の食事を作るグループ、境内で遊ぶ子どもらを見守るグループなど、
そこに住む一人ひとりに役割があった。ごみ処理については、順番を決めて皆が協力していた。
朝は、寝具を片付ける時間が定められていた。
ソトの機関とつながっている者もいて、生活に必要な物資は、ソトから届いていた。
お堂の片隅には、届けられた物資がよく見えるように陳列されていて
「ご自由にどうぞ」と張り紙がしてあり、
スナック菓子や、ジュース・お茶のペットボトル、日用品などが並んでいた。
お寺で暮らす人々は、ウチに向かう連帯感と、ソトとの接点を持っていたのである。
そして、住民らは、自ら作り上げたルールや仕組みを基盤にして共同で生活していたのだった。
 一方、行政が小学校に設置した避難所は、段ボールの壁で個人のスペースを仕切り、
そのスペースの中は、布団が敷きっぱなしにされていた。
昼間、何をすることもなく、住人の多くが横になっていた。
 どの避難所も、共通して言えることは、子どもたちは無邪気だったということである。

communityとは(「共同体」を考える3)

用語の定義 
「濱嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘 編『社会学小辞典』〔増補版〕(有斐閣1991増補版13刷)」より、
一部抜粋しておく。

共同体 (community 独Gemeinde)
広義には相互依存的な生活と共同労働、
共属感情および連帯感につつまれた成員から成る共同社会を指すが、
狭義にはマルクスの歴史理論でうち出された近代以前の社会の基底をなした生産様式をいう。
それによれば私有財産制の成立に先立つ共同所有と共同労働を基礎としていた原始共同社会から移行して、
私有地と共有地が併存する土地所有形態をとる。
そこでは共同体的に占取された土地に何らかの形で依存せざるをえないために、私有地の経営においても、
三圃制度や混在耕地性などの種々の共同体規制を受けざるをえない。
低い生産力の下で成員と共同体を維持再生産することが最も重要なこととされ、
階層分化を抑制するための内部における平等性、
共同体的土地所有を守るための外部に対しての封鎖性を特徴とし、
局地的小宇宙として孤立分散したものであった。

コミュニティ(community)
コミュニティの社会学的含意は、一定地域の住民が、
その地域の風土的個性を背景に、その地域の共同体に対して特定の帰属意識をもち、
自身の政治的自立性と文化的自立性を追求すること、に示される。
コミュニティの規定自体、多義的で、そのことがコミュニティ概念の曖昧さにつながっている。
ヒラリー(Hillery,G.A.)は94通りの規定を整理して、
「地域性」(area)と「共同性」(common ties and social interaction)が最低限の共通項であることを発見している。
コミュニティ思潮という脈絡では、低迷期と高揚期の繰返し(離脱と回帰のサイクル)である。
1970年代のわが国では、巨大都市を中心とする社会構造の変動により、
伝統型の「地域共同体」(およびその擬制的延長)が衰微化しており、
したがって住民にとって新しい規範をもつコミュニティ形成の必要が、強調されている。
新コミュニティは、伝統型共同体のように固定した社会=経済的基盤に照応しておらず、むしろ
1)住民の意思と行動という価値理念の面で追及
(地域生活過程における住民の思想と行動の新しい体系、とのコミュニティ規定)と、
2)都市的生活環境施設の物的な面での充実
(生活環境施設のネットワーク、とのコミュニティ規定)の二つの極に突出している。

ボランティア20年歴 (「共同体」を考える2)

私が今の居住地に引っ越してきたのは、中学3年の夏でした。
転校せず名古屋の学校へ通ったので地元に知り合いはできませんでした。
育児期に近所の公園で出会った幼い子を連れた母親らが、市内で初めての友人となりました。
その母親らと公共施設で集まっていたことが、きっかけとなり、
私は行政との協働で新しい事業に関わるようになったのです。

地域コミュニティに関わりはじめてから20年が経ちます。
その間、地域活動の現場には様々な変化が現れました。
阪神・淡路大震災が起きた1995(平成7)年は、
多くの市民が災害ボランティアとして参加したことから、「ボランティア元年」と呼ばれ、
ボランティア活動が注目され始めました。
その流れをうけて、1998(平成10)年に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が制定され、
ボランティア団体に法人格が与えられました。
この頃、「有償ボランティア」という言葉をよく耳にしました。

2000(平成12)年に閣議決定した行政改革大綱をもとに、自治体の職員数は減少傾向となり、
地域で集う個々人と、意見交換をするような時間的ゆとりを持つ職員も、いなくなっていきました。  
介護保険制度では、「『措置』から『契約』へ」と変わり、
老人介護のみならず福祉事業全般において、
サービスを提供する側と、サービスを受ける側との関係は、契約に基づいて築かれることとなりました。

緩和規制により、各自治体は、NPOとの協働関係の創出など
官民が一体となって、地域支援に取り組めるような施策の充実を迫られました。
やがて、社会事業に導入された市場原理によって成果主義が浸透してくると、
指標に対する意識の高い、NPOを含む民間が、
これまで公的部門が供給していた社会事業に参入してきました。
一方、IT革命が社会に及ぼした変化は、地域活動にも影響を与えていました。

地域活動に携わってきたボランティアにも、
「地域にどう関わるか」が課題として現れてきました。
そして、社会の大きな転換は、私に違和感となって襲いかかってきたのです。

草の根活動から出発し、他者とつながることに生きがいを感じながら、
一つ一つ積み上げてきましたが、ここで、大きな壁にぶつかりました。
「これ以上続けるために、仕事としてやっていく覚悟はあるのか?」
「いったい、私は、なにを目指して、やってきたのだろうか?」

あの頃の私は、遭遇した「違和感」や「壁」を、
こころの中で整理するのに、必要な知識も言葉も持ち合わせておらず、
たいへん困惑していたわけです。

そして、2012(平成24)年、放送大学で心理学と教育学を学び始めたのでした。

放送大学機関誌の8ページに、私から皆様への感謝の気持ちが掲載されました。
プロフィール

うぃんく

Author:うぃんく
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